島田勝也のレポート

沖縄の経済・社会・政治・ビジネス情報・、ひとり言を色々と・・・。

児玉源太郎の海底電信線敷設(7)

 ~日本における海底電信の黎明期⑤~
 1895年(明治28年)4月、日清戦争講和(下関条約)により、わが国は賠償金を得、台湾を領有することになった。ここにおいて本土-台湾間に軍用海底線の敷設と、台湾航海上必要な灯標を設置することとなり、台湾総督樺山資紀から通信施設費381万余円、灯標建設費48万余円の予算が内閣に稟請され、その承認を得るところとなった。同年6月、臨時台湾電信建設部と臨時台湾灯標建設部官制が発布され、児玉源太郎男爵が部長に就任し本部を陸軍省内に開設した 。この作業は膨大な経費を要するため大本営の仕事として軍事費で始めたが、大本営は終戦により解散されるので、陸軍省内に上記臨時建設部を置いたのである。電信および灯標の業務は逓信省に属し、ために工事施行は建設部長指揮下に逓信省職員が当たり完成後、陸軍からこれら施設は逓信省に移管された 。
 なお臨時台湾建設部の事業は、海底電線敷設船1隻建造、貯線池築造(長崎西泊)、電線購入、海底電線敷設、各島陸上線の建設であった。同建設部はここで電線購入にある細工をする。それは本工事所要線を購入するとき、約500海里を余分に発注したことである。工事後、残量とともにこれを逓信省に保管させておいたので次に勃発した日露戦争のとき直ちにこれを使用して、軍用海底線を敷設することができた。当時、海底ケーブルは戦時においては購入し難く、あらかじめこれを用意したことが、先見の明があったと評価されている 。
 九州-台湾間および南西諸島連絡工事は創業以来未曽有の大工事であった。当初、外人をして施行させることに決定されていたのであるが、浅野応輔らはこれを敢然としてしりぞけ、工事のことごとくを日本人の手により行なった。工事中、最初の区間、大浜-大島間敷設中にいささかの齟齬をきたしたが、新船の沖縄丸を使用したため全工事とも優秀な成績を収めて完成することができた。この大事業完成の大きな原因となったのは、なによりも当事者一同、身を挺して事に当たり、一致団結してその責務を果たしたことによるものであったという 。
 台湾領有後、政府は中国福建省川石山(川石山は福州から約28海里下江したところにある小島で、大東会社の陸揚地)から台湾淡水に至る海底線を1898年(明治31)メキシコ銀10万円で買収した。
 これは、沖縄への海底電信線敷設の1年後のことである。

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